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2013年9月27日金曜日

踊りませんかーー社交ダンスの世界

浅野素女
集英社新書

バレエがダンス芸術の王道ならば、社交ダンスは民衆文化。
演劇で言うところの、歌舞伎と小劇場みたいな関係。
ちょっと違うか。


「…ワルツは愛の成就を、タンゴはその後にやって来る衝突や失望や嫉妬を表している。さらにスローフォックスは、争いや衝突を経て再び一体感を取り戻したふたりの愛の深まりを表現していると言われる。スローフォックスから感じ取られるひずみのないハーモニーややすらぎは、試練を乗り越えた果てにようやく辿り着くことのできる、カップルのおる境地を示しているのかもしれない。」94頁

2013年9月25日水曜日

バレエの宇宙

佐々木涼子
文春新書

プルースト研究家によるバレエ入門書。

2013年9月23日月曜日

風立ちぬ

宮崎駿
吉祥寺オデオンにて

3回目の観劇。
うち2回は立川シネマシティで観たのだが、あそこは音響のよさが素晴らしいと改めて感じた。
ドルビーではなく、SONYの4Kとか(4Kって映像の規格ではないのかな。高画質の)。

さて、3回目の観劇だが、今回は事前に堀辰雄の「風立ちぬ」と堀越二郎の「零戦 その誕生と栄光の記録」を読んだ。
基本的に映画は宮崎駿がこの二冊から着想を得て再構築したフィクションだということを認識。
宮崎駿ってややっぱり想像力や粘り強さ(一手間かける気力)がすごいなと思い続けていて、あまり映画に集中できなかった。
あと風立ちぬっていう映画は「矛盾」に満ちた映画だということを感じた。
戦闘機好きの戦争嫌いの宮崎駿。
それをそのまま、葛藤とかも含めて表現してしまう。
だからこそ、割り切れない、すっきりしない部分もあるんだけども、矛盾に満ちたまま描く表現力。
引退会見とかでも「この映画に込めたメッセージは」という質問に「映画をみてください」と返しているのは、一言でいえる類のものではないからなのだろう。
もっとたくさん映画を作って欲しいです。

東京問題の政治学

土岐寛
日本評論社

こちらも2週間前くらいに読了

学生時代にやらなくてもいい20のこと

朝井リョウ
文藝春秋

2週間前くらいに読んで、ショックを受けた。
この人の才能は驚異である。
学生時代に同じようなことを思ったり、やったりしていたけれども、こんなに生き生きとユーモア満載で表現できるなんて。
こんな友達がいいな、とも思わせる文章。
ああ、ショックだ。

2013年9月14日土曜日

プルーストを読むーー『失われた時を求めて』の世界

鈴木道彦
集英社新書


これを読んで大分プルーストがわかった気になってしまった。
かいつまんで知るには最適。

本編もちゃんと読まないとダメだろうか……。
また一巻半ば、全十三巻もある。
うう……。

自治体行政の領域 「官」と「民」の境界線を考える

稲継裕昭 編著
ぎょうせい

2013年9月9日月曜日

立候補

中野ポレポレ

泡沫候補のドキュメンタリー。
マック赤坂とか羽柴秀吉とか。
同じ選挙ドキュメンタリーでは、想田和弘監督の「選挙」ってのがある。
小泉旋風の時期の選挙で、夫婦ゲンカのシーンとか、選対の方に怒られたりするシーンが印象的だった。

やっぱり選挙に、政治に興味を持つならば(無理して、また日常生活のはけ口として興味を持つ必要はたぶんない)、選挙ボランティアが一番ではないでしょうか。
同時に私は、日々の日常生活を大切にしようと思いました。

2013年9月8日日曜日

東京オリンピックの開会式の演出家

2020年は東京オリンピックとなった。
賛否両論あるかもしれないが、とりあえずやることは決まった。
私の関心事は誰が開会式の総合演出をするかだ。

もはや北野武と宮崎駿の両名を除いてはいない。
個人的にはキタニストなので、北野武を推したいが、宮崎駿も「風立ちぬ」が素晴らしすぎたので、何とも言い切れない。

2008年の北京オリンピックは中国の映画監督・張芸謀、
2012年のロンドンオリンピックは英国の映画監督・ダニー・ボイル、
と映画監督で続いている。
現代において、総合演出に長けているのは映画監督においてない。

音楽に関しては、1992年のバルセロナオリンピックの開会式で指揮を担当した坂本龍一の起用もあるかもしれない。

いろいろと楽しみである。

2013年9月7日土曜日

NO DAMAGE

佐野元春のLIVE映画

エンドロールのサムデイ以外一曲もわからなかった

2013年9月6日金曜日

マルセル・プルースト「失われた時を求めて」(集英社文庫・鈴木道彦訳)を読んで(P247まで)

「20世紀を代表する文学」として名高いマルセル・プルースト「失われた時を求めて」を読んでいる。
この本はジェームズ・ジョイス「ユリシーズ」と並んで、20世紀を代表する文学とされている。
が、実際に読んだことがある人には出会ったことはないし、私も数々の文学作品を紐解いてきたがなかなか手をつけられなかった。
とにかく長いのである。
私の読んでいる集英社文庫でも13巻もある。
源氏物語よりも、戦争と平和よりも長い。
一度読みだした本は最後まで読む、をモットーにしている私にとっても、読みだすのにも勇気がいる。
今回、一緒に読んでくれる仲間をみつけて(3名)読みだした。

読みだしてみたものの、とにかく、頭に入ってこない。
もはや文字を追うだけになっている。
面白くもなんともない。
物語もよくわからない。
かの有名な「紅茶とマドレーヌ」のくだりは、急に光が刺したように(実際に「光」というキーワードが現れる)読みやすくなったものの、すぐに章が終わってしまい、また暗闇に突き落とされる。
これでは、先行きが大変不安なので、訳者の鈴木道彦氏が著した「プルーストを読む」(集英社新書)をという新書をまず読んで、骨格というが世界観を手っ取り早くつかもうと同時並行で読み進める。

救われたのは鈴木氏の次の著述である(上記書P12〜13「はじめにー私はどんなふうに『失われた時を求めて』を読んできたかー)。
「頼れる翻訳はなかったから、辞書を引き引きたどたどしくこの未知の領域に入り込んで行ったのだが、手探りで数ヶ月のあいだ進んでゆくうちに、あるときから私は、自分がいくらか馴染みの世界にいるような気がし始めた。そう思ったのはおそらく、その頃に私が抱えていた素朴な問題と関係があったのだろう。それは二十歳前後の者なら誰しも考える類のもので、つまり「私」とは何か、という問題だった。
この「私」は一つの呪縛だった。どこへ行っても、何をしても、たとえ一杯のコーヒーを飲んでいても、私は、これを選び、これをしているのは自分だ、という感覚の周囲を堂々めぐりしていた。確実なものは、皮膚に包まれていたこの肉体の内部に起こることだけで、他人の存在や考えは理解できない世界に思われた。しかも、皮膚の内部の「私」の考えることははなはだ利己的で、どんなに立派な文句を口にしても、他人のために気を使っても、さらには一文の得にもならない犠牲的な行為を敢えてしても、そこにはかならずいやしい計算が働いており、それが自分には隅々まで見えてしまう。だから「自己愛」や「虚栄心」をめぐるラ・ロシュフーコーの『箴言集』の考察は、私には容易に理解できたし、その一方でこのように見え透いた自分の姿は鼻持ちならないものだったから、「自我は嫌悪すべきでものである」というパスカルの『パンセ』の言葉も、ぐさりと心に突き刺さるものを持っていた。
こんなふうに「私」をめぐって思考にもならない思考を繰り返していたも者にとって、プルーストが描く「私」の意識に入りこんでいくのは、たとえ簡単なものでなくとも、抵抗を覚えることではない」


私にとっては「私」とは何か、という問題は、大学時代にゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読んだ時に直面したものである。
「若きウェルテルの悩み」は告白文学という形式をとっていることもあり、また許嫁がいる女性への叶わぬ恋をするというわかりやすい構図もあって、余計に身につまされた。
確かにプルーストを読んで、改めて「私」とは何か、という青臭い、そして現代的な言葉でいえば「中二病」のような自我の肥大が私に襲いかかってきた。
もう28歳だというのに。
文学は危険だ。
無意識に自分の自我を肥大させ、その成長痛のような「痛み」を伴う。
痛みを緩和させようと文学を求めるが、鎮痛剤としての作用は全くなく、かえって痛みを最大化させる。
痛みによって、ちっぽけな自己の存在を確認するかのように。

プルーストは自分にとってはあまりにも偉大で、巨大で、その価値が一向にわかる気配はないが、ぶつかり、その断片だけでも感じれたらよい。
そんなことを思う、夜中の酔いどれの落書きである。