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2010年12月27日月曜日

北京旅行に向けて

年末の29日から四泊五日で北京に旅行する。
失恋中の園原氏と二人で行く。

二人旅はこれで、五度目。
国内ではヒッチハイクで各地を巡った。
海外に行くのは初めてだ。
私は今年の二月にインド旅行で海外デビューしたが、園原氏は海外旅行自体が初めてである。

パスポートは取得し、ホテルと航空券は予約してある。
それ以外はお互い何もしていなかった。
このままだと、ぶっつけ本番になりそうなので、会うことを呼びかけた。

昨日、吉祥寺で会った。
会う前に私はガイドブックを買って予習した。
時間がなかったので気になったところに付箋を貼ったら、付箋だらけになってしまいどこをみていいのかわからなくなった。

落ち合い、はらドーナッツというドーナッツ屋に入った。

旅行に関して、園原氏は何も準備していなかった。
ただ、出発日に大掃除をするということは決めていたようだった。
だから私も手伝うことにした。
19時発の飛行機なので、17時には成田空港に着いておきたい。
逆算して、園原家の最寄りの護国寺を15時半に出る必要がある。
となると、私は午前中に園原家に着くのが望ましいことになる。
海外保険の入っていた封筒のはしに、午前園原家、15:30護国寺発、と書いた。

それでなんとなく、話し合いが終わった。
その後、ポイントカードを持ってないけど、ヨドバシカメラ行って、変圧器を買った。
あとはいせや(新しいほう)に行って飲みました。

2010年12月25日土曜日

クラウド・コンピューティング仕事術

西田宗千佳


朝日新書

ノルウェイの森

立川シネマシティ2

立川シネマシティのいい事。
上映前のCMが少ない。
劇場主の意向らしいがとても良心的だ。
あと、音がいい。
というわけで、ビートルズのノルウェイの森をすばらしい音で聞くことができた。
エンディングだけだけども。

http://eiga.com/l/4d83

2010年12月24日金曜日

消費者教育学会

消費者教育学会に入会しようと思う。
仕事に直結するところでもある。
深く掘り下げて、仕事を充実させたい。

アカデミックな世界に足を踏み入れるとは学生時代は思いもよらなかった。
しかも消費者教育とは。
人生どう転がるかわからない。
Like a rolling stone

津谷弁護士の事件

遺族証言が事実だとすれば、津谷先生は浮かばれなさ過ぎる。
もちろん遺族も。
なぜ、二度も苦しまなければならないのか。
身につまされる。
この事件は心にズシンと重量感が残ったままだ。

芸術闘争論

村上隆


「自由」信仰批判
P264
「やりたいことしか、やりたくない」と。だからこそ、ぼくは自分の将来の信用問題を考えてどんなに小さなことでも手抜きをしませんでした。
p266
とにかく無節操に自由にいたい。人の顔を潰そうが何しようが自由がいちばん。社会構造を理解するより自由な立場を優先したい。しかし、うまい話にはのりたい。のっても、そのうまい話を自由気ままに好き勝手にやりたい。それはできない相談です。しかもキャリアも成功例もそれほど持ち合わせていない。それなのに、どうして自分の今の社会的立場を理解しようとしないのか。それは、そういう訓練を受けてこなかったし、仲間内でも社会に馴染まないことが正義という共通理念が発酵熟成してしまったからかもしれません。

2010年12月21日火曜日

ニコ生

村上隆、斎藤環対談。
今朝村上隆のTwitterで、この対談を知り、会場まで足を運んでみた。
都庁の隣の住友ビル七階にて。

対談の中身も面白かったのだか、ニコ生ということもあって、
対談中も文字によるツッコミが入る。
最初のうちは、それが可笑しくてしかたなかった。


ローコンテクスト、ハイコンテクストについての斎藤環の解説はとても勉強になった。
多民族でいちいち明示の表現で成立する文化はローコンテクキスト、
多くの暗黙の了解で成立している日本文化はハイテキスト。
日本の漫画とかサブカルチャーはハイコンテクスト、
教育によって理解が出来るアートはローコンテクスト。

帰りに村上隆の芸術闘争論1800円を買いました。

2010年12月18日土曜日

いまここに在ることの恥

辺見庸

「あなたは誰ですか」「あなたはどこから来たのですか」「あなたはなにをしているのですか」
根源的な問い。難問中の難問。

2010年12月15日水曜日

しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか

辺見庸

本著にインスパイアされて思ったこと。
iPhoneって便利すぎる。ついついいじってしまう。だが、みたされない。依存してしまっている。自分の身体までがデジタルの一部になろうとしている。情報にさらされ続け、身体は腑抜けとなっている。
五月に熊野に旅に行った時、友人園原がiPhoneを家に置いた理由がよくわかる。iPhoneという機器の汎用性。これは便利でスマート過ぎるゆえに危険である。全て収斂されてしまう。抵抗する間もなく。

2010年12月13日月曜日

反省

11月は5冊しか本を読まなかった。
(このブログは何冊読んだかのメモである。そのためにある。)
下旬に資格試験があったことやちょっと仕事でバタバタしていたこともあり、勤務後のジムや勉強会参加も疎かになってしまった。

サボりグセは怖い。
つい、ま、いーや、となってしまう。
ジムは銭湯と化し、カフェや電車内ではiPhoneで時間をつぶし、スタコラサッサと帰路につく。
住まいが東京の西の外れで何もないので、帰るモードになると一日がそれで終わる。
最近になって時間にゆとりが出て来たが、それまでのリズムを引きずり、どことなく物足りなさがあって、今ひとつ調子が上がらなかった。
ま、いーや、を超えると確かな手ごたえを得られる。
これが生活にハリを与えてくれるようだ。
本日、早稲田で北田暁大の講義を聴いてつくづくそう思った(詳細は後日)


とりあえず、これからは次の3つに力を入れたい。
①東京マラソンに向けてのジョギング。←最近週一くらい。
②アート。そもそもアートとは何かについて考えを深める。観劇する。知り合いのだけではなく、自分でみたい演目を探し、チケット買って見に行く。
③消費者行政。まず足元の仕事から。次に消費者教育、教材。法律一般、消費者法についても、その辺の法学部生くらいの知識を。


今までの人生、計画倒れでやってきました。
でも構いません。
談志師匠の御言葉。
『人生成り行き』

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム

東浩紀・北田暁大

2010年12月12日日曜日

辺見庸講演会

辺見庸の講演会が12月19日にあるようだ。
http://yo-hemmi.net/pages/user/iphone/article?article_id=169832581
聴講しようと思う。
今回で二回目となる。
第一回目はとても印象深く、その後も多大なる影響を受けたのだった。

大学卒業はしたが就職先のなかった二年前の春、友人原雄二の誘いで、辺見庸の講演会に参加した。
会場は九段の会館だったと記憶している。

原雄二くんがなぜ辺見庸の講演会に興味を持ったかは未だ謎である。
私もその時は辺見庸の本を読んでいなかったし、名前を知っているくらいだった。
ともかく、特に予定もなかったし、ジャーナリズムにもさして興味はなかったが、せっかくだしちょっくら覗いてくるか、といった気分で会場を訪れた。
死刑制度についての講演だった。
講演に先立ち、チェロのミニコンサートが行われた。
辺見庸はこれを死刑囚に捧げるといった。
そうして、講演が始まった。
途中休憩を挟んで、三時間くらいだったと記憶しているが、辺見庸は淀みなく話し続けた。
時折うまそうに水を飲んでいた。

辺見庸は徹底した死刑反対論者である。
世間、諧調性、スパルタクスをキーワードとして、自説を展開した。
身近な人間が殺されたら、その殺したヤツに死刑を望まないかい?という感情論で死刑を漠然と肯定していた私は、
死刑制度への無知を恥じ入るとともに、心が揺れ動いていった。
巧みな論理的裏付けであった。
阿部謹也の世間論、ダンサーインザダーク、鳩山邦夫元法務大臣のベルトコンベアー発言、とどめはマザーテレサの言葉の引用だ。
愛の対義語は無関心ー
この言葉ほど胸に突き刺さったものはない。
死刑は確実に行われている。
国家というシステムによって人の命が殺されていく現実。
国家による正当化された殺人。
抵抗できない個を抹殺する正義。
だが、それは遠くの出来事、他人事。
波風立てないように穏やかに、「日常の諧調性」の中で通り過ぎ行く。
それは正義か。
わたしは戸惑った。
でもしかし、とも思う。
自分にとって大切な人が惨殺されたならば黙っていられようか。
自らのうちに暴力性が湧いてこないだろうか。
それでも辺見庸は死刑に反対をとなえる。
辺見庸は数年前に倒れたせいで体にマヒがある。
死刑が執行されたのを知ると、発作が起こり体が硬直してしまうのだそうだ。
その姿、その姿勢に、私は死刑制度について考えざるを得なくなった。
その答えはまだ出ていない。

2010年12月11日土曜日

仙人からのお祝い

私の誕生日は10月13日です。
この手紙は12月1日に来ました。
仙人の誕生日は12月5日です。

ちなみに同封のプレゼントは綾小路きみまろのCDでした。

2010年12月10日金曜日

高尾山

去年の年末年始は高尾山のお寺で働いた。
高尾山といってもケーブルを登ったほうではなくて、高尾山口駅から甲州街道沿いにちょっと歩いた高尾山祈祷殿というところ。
ちょうど駐車場があるところで、その一角に車のお祓い場があり、そこで働いた。
仕事内容はお祓いに来た車の誘導とお守りなどのグッズ(?)販売。
年始は二時間待ちになる位の大盛況である。
また、お守りなどを買っていただいた時に「ありがとうございます」ではなく、「ご苦労様です」というあたりがお寺っぽさを感じさせた。
ちなみに年明け早々、園原氏、チャコ山氏、エリコポーロ氏がお見えになった。
エリコポーロ氏は騙されたのか、寒そうな格好で来ていた。
高尾山は山なので朝と夜は結構冷え込む。
どの位寒いかというと、私がヒートテックを四枚重ね着する位である。
園原氏はお守りを買ってくれた。
彼は昔、
実家に久しぶりに帰った時に車を運転した時にバッテリーが上がってしまったり、
カーナビ付きの車を運転しながら道を間違えたり、
車線変更をうまくできない
と車に関して弱点を抱えていた。
彼が買ったお守りはカードみたいなもので、あまり売れなかったものであった。
効果はあったのだろうか。
チャコ山氏は来たことしか覚えていない。

兼業できない公務員でなければ今年も働きたかった。
今年はお客として行こうか。
混むから嫌だな。


2010年12月8日水曜日

反貧困ーすべり台社会からの脱却ー

湯浅誠


メモ。
貧困問題はあるかないか、最大の敵は無関心。
貧困とは溜めがない状態。
すべり台社会。


搾取される時の惨めさは、昔グットウィルでバイトした時に経験している。
人脈の貧困は大学浪人中に。
仕事がない苦しさも就活浪人中に経験済み。
ここに私の原点がある。
だからこの本を読んで感じたのは貧困への同情ではなく、あわや自分もという危機感である。

2010年12月6日月曜日

園原家の魔力

おととい、久しぶりに活劇の芝居を観に行って、その足で園原家@文京区に泊まりに行った。
私は我が物顔で無印良品のベットを占領し、早々と寝てしまった。
かといって早起きするでもなく、急かされるまで二度寝三度寝をする始末。
主人の園原氏は寝袋で寝ていたらしい。
私は寝ていたからよくわからない。
本当に気持ち良く寝た。


今回の住居は初めてだ。
園原氏の家に初めて行った時は大学二年。
その時は国領、その後、新富町、三軒茶屋と引っ越しをしている。
今回引っ越したのは騒音トラブルが原因らしい。
彼なりにストレスを溜めてしまったようだ。
頭がひな鳥みたいに薄くなっていた。

園原氏は実家が長野県なので、一人暮らしをしている。
喘息持ちのため、部屋は綺麗である。
ものはあまりなく、簡素な印象を受ける。
そこで異彩を放っているのが意外と数がある本である。
難しそうな本がたくさん置いてある。
しかし積ん読であることがみえみえなのが悲しい。
この点は、住居を変えても共通している。

初めて園原家に泊まりに行った大学二年の時、
あまりにも寝心地が良くて、二度寝三度寝四度寝をし、一日を潰してしまったことがある。
またある時期は、彼はチベット仏教にハマっており、寝る段になると、仏教音楽をかけていた。
私には信仰心はないが、幻想的な音楽とお経は、何か大きなものに優しく包まれたような気分にさせ、深い眠りへ落ちていった。

赤ん坊と大学生はよく眠る、とはモリミーこと森見登美彦の名言であるが、それを地で行く大学生活を送っていたのである(卒業してもその傾向は続くのだがそれはまた別の機会に)。

悪いやつほどよく眠る、という黒澤映画もあるが別に悪いやつでなくても眠るときは眠るのである。

そんな時代も遠くなりました。(と思いたい)
今年の4月から突然変異をしました。
毎朝、五時起きの規則正しい生活を送っています。
最近では太陽が出る前で、薄暗い中を出勤してます。

2010年12月5日日曜日

石原慎太郎 5人の参謀

上杉隆

2010年12月2日木曜日

宗教

日本人に宗教はないのか?
いや、そんなことはない。
日本語による思考そのものが宗教ではなかろうか。
保守というのもそうだ。
自分が信じるか信じないかも意識しない最強の宗教。
それこそが日本人の宗教である。

それは、世間、空気、人間としてなどのあいまいなことばに内包される。
こうしたものに自覚的に生きて行きたい。

職業"振り込め詐欺"

ディスカバー携書

同名NHKスペシャルの書籍版。

振り込め詐欺の犯人の多くは20代などの若者なのだという。
仕事ができて、頭の切れる若者たち。
彼らは起業するための資金稼ぎとして、振り込め詐欺を行っている。
時代の状況を的確に読み、金銭化している。
一番危険な口座からの引き出しは、出し子、と呼ばれる末端の人間にやらせる。
出し子は、金銭的に困っているものが、目先の利益にとらわれてなる。
社会が悪いとか、自分の中に正義を作り犯罪に手を染めることを躊躇から振り払う。
捨て駒にされていることも気付かずに。